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1995年阪神大震災出動

「阪神大震災」救援に、教区災救隊出動

廃墟の街 神戸に70人 一日も早い復興に祈りを込めて

一面に照度と化した中、かってはそこに我が家があっただろう焼け跡に佇んで、そっと目頭をぬぐう数人の家族らしき人たちがいる。一階部分が倒壊し、道路に立つと目の高さになった二階の窓から屋内に入り込み、家財道具を選り分ける人もいる。”その日”から一か月が経ったというのに、茫然自失の態で何人もの人たちが焼け跡を、瓦礫の中を彷徨する。かなりの広範囲にわたって焼き尽くされ、廃墟と化したその中で、あるいは狭い路地の奥で、うなりをあげてユンボが動き、ダンプが走り回る…… テレビや新聞などマスコミで幾度となく繰り返し見てきた光景が今、現実に目の前にある。使い古された言葉ではあるが、まさに想像を絶する、予想をはるかに超えたそうした惨状を目の当たりにして、ここが同じ日本なのか、かくもすさまじい震災であったのかと、しばしば声もなく固唾をのむ思いで見つめ続けた神戸の街並み……、それでも人々のたくましさは強く、しかも確実に復興に向かって歩み出していた。
 教区災救隊では、災救隊本部からの出動要請を受けて2月2日のスタッフ会議で参加要項を発表。すぐさま各支部班長が募集に走り、10日の緊急会議では60数人の参加者を確認、要項を手直しして直ちに参加隊員に徹底させた。
  そして12日には、これ又災救隊本部からの要請を受けて、先発隊として4名を「兵庫西隊」本部のある加古大教会に派遣し、本部及び大教会との折衝、出動現場や廃棄物等の処理場の下見、教区よりの搬入物品の確認と生活面での指示等、本隊の受け入れ準備にあたった。
 14日、宇恵隊長以下本隊がマイクロバス2台に分乗し、山田・池見・高橋主事先生方の見送りを受ける中、午後12時半天理ビル前を出発、途中足柄SAで小田原のマイクロバスと合流し、ワゴンで天理に先着していた横須賀支部隊員とも五条詰所で合流して天理泊。
  15日、教庁にある災救隊本部で、本部スタッフ及び東京教区隊(今回の出動が合同、総員53名)と共にスタッフ会議、正式名称が「阪神大震災天理教災害救援ひのきしん隊兵庫西隊五次隊」と発表される。会議後、神殿でお願いづとめと隊長挨拶があって出発。渋滞もなく順調に午後12時過ぎに加古大教会到着。参拝のあと班編成。現地の状況説明を開き、昼食後マイクロ2台、ワゴンの計3台に分乗して、神戸市内の被災現場、焼却場、明日からの出動現場を視察して午後5時からの結隊式に出席。
  16日早暁、後発の11名が到着して70名全員が揃う。朝づとめ、朝礼後6時20分頃より順次出動。作業現場が遠いため、女子隊員手造りの朝食(おにぎり)を車中で食べながら、班毎にワゴン(隊員の搬送)とダンプで現場に入る(以下19日まで同じ)。今回災救隊本部より要請があったのは、神戸市内にある約50か所の倒壊教会の解体と搬出で、その教会周辺で要望のあるところ(一般民家と道路)に限りひのきしんをさせて頂く事であった。
  以後19日までの5日間、教会家族はもとより被災された多くの人たちの心情を想いつつ、それぞれの現場で特殊な防塵マスクでさえも用をなさぬほどの土埃と汗にまみれながらえ、家財道具の運び出し、教会・教職舎の解体、解体材の積み込み、往復1時間も2時間もかかる焼却場や処理場へのダンプでの搬送、解体後の整地から周辺道路の片付けや清掃、更に会長さんを通して依頼を受けた周辺民家への大きな力仕事から、どんな些細なことまでも、班長を芯にして心を一つに結び、精魂こめてつとめさせて頂いたおかげで、一人の怪我人も出すことなく作業終了の時を迎えた。又女子隊員8名も、加古大教会の奥様の指示のもとに、炊事・洗濯・清掃からの湯茶の世話どりに、早朝から深夜に至るまでつとめさせて頂いた。19日午後1時半から大教会神殿で解隊式。
  戦後最悪の、5千数百人余りの犠牲者を出した阪神大震災。多くの人の心に受けた傷は簡単に癒される事はないだろうが、いつの日かすばらしい復興を為し遂げるであろうことを夢見て、又その日の一日も早いことを祈りつつ、神戸に、加古大教会に別れを告げたのであった。
  神奈川教区災救隊男子62名に女子8名総員70名。全員無事に元気に救援活動につとめさせて頂いて参りました。
   ありがとうございました。
   尚、今回神奈川教区災救隊が出動した教会は以下の通り
   神戸市長田区:名昭(山名)、大海光(中河)、八木博(八木)、騰精(洲本)
   神戸市東灘区:船神(船場)
   神戸市須磨区:南枝(南海)
   明石市:天望(国名) 以上7か所

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